『伯林漂流』 レヴュー
これはハードコアなポルノ映画だが、私の股間はピクリともしなかった。なぜなら、ノンケだからである。
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ゲイ・ポルノを、それまでに見たことはなかった。だから『伯林漂流』を見る前には、ふたつの不安があった。ひとつは、男同士のセックス・シーンを見て自分は気持ち悪くならないだろうか、ということ。もうひとつは、逆に性的に興奮してしまったらどうしよう?ということだった。
いずれもホモフォビアだろうか。
私の考えでは、前者はホモフォビアではなく、後者はホモフォビアだと思う。
自分と異なる性指向を持つ相手との性行為が生理的な嫌悪感を催すのは自然なことであり、したがってヘテロセクシャルは同性相手の性行為を拒否する傾向が強く、ホモセクシャルは異性に拒否感を持つ。バイセクシャルはいずれも許容する。そこにはグラデーションがあるだろうが、いずれの性指向も等しく尊重されるべきだ。
しかし後者は自分の中にあるかもしれない性指向を認めたくないという不安だ。その認めたくないという気持ちがどこから来るのかといえば、それまですごしてきたマジョリティ社会の規範から自分が逸脱することへの恐れだということになるだろう。
結果は冒頭に記した通り。怒涛のごとく繰り出される本番シーンにピクリともしないチンコに、あらためて自分の頑ななまでのストレート性を再確認するはめになったのだった。
では退屈な映画だったか?
そんなことはまったくなかった。ポルノ映画である以上、監督の今泉浩一はまず観客に性的興奮を呼び起こすためにこの映画をつくっているはずで、その意味では私はこの映画を正しく鑑賞できなかった観客だ。しかしながら、たとえば全く知らない言語でつくられた映画や音楽をときに楽しむことができるように、『伯林漂流』は私にとって優れたエンタテインメントであった。これはすなわち、セックス・シーンに生理的嫌悪感を催すこともなかったということである。
物語は、ベルリンに住むさえない中年男(今泉浩一)と、そこにたまたま転がり込んできたヤリチンの若い男(馬嶋亮太)の短い日常生活を描いたもの。行き場のない若い男を無償で自分の部屋に泊めるかわりにセフレにするはずが、中年男は彼に次第に恋愛感情を抱き、悶々とする。一方、人の気持ちの全くわからない天真爛漫なヤリチンは、日々出会い系アプリで新しい男を見つけ、逢瀬を重ねては中年男のアパートに戻ってくる。中年男は外でどんなセックスをしてきたかネチネチと質問しながら、夜毎ヤリチン相手にそれを再現するのであった。要するにこれは、ジャンルとしてはネトラレである。
たとえば、朝食を二人で食べながら、意を決してデートに誘うも見事に断られ、いそいそとセックスしに出かけるヤリチンを見送ったあと、一人さみしく皿を洗う中年男。こうした描写に胸がときめかないことがあろうか。田亀源五郎脚本の威力もあるだろう。それが映像の美しさとあいまって、一級の胸キュン恋愛映画に仕上がっているのだった。
自分のチンコがピクリともしなかったことで自分がとことんまでストレートであると認識したとき、「よかった、俺はホモではなかった」と安心感を得たかといえば、実はそういうわけでもなかった。かといって、淡々と進行するゲイの恋愛物語を見て疎外感を覚えたかといえば、それも否である。
こんな陳腐なことはあまり書きたくはないが正直に感想を言うなら、恋愛はゲイでもストレートでもまったく同じじゃないか!ということを実感させてくれたのが、この『伯林漂流』であった。自分のホモフォビアとの関係でいえば、むしろそのことに安心感を得たといえるかもしれない。
野間易通(C.R.A.C.)
『伯林漂流』を観るあなたは、この映画に出てくるすべてのセックスの先に行かなくてはならない。
この作品はその未熟なプロダクションや出来不出来のムラが多い演技に足を引っ張られているが、
それでもこの映画の基本的に甘美な――そしてトラッドな――心を隠すことはできない。
皮肉なことだが、今泉と田亀はセックスシーンの使用には細心の注意を払っている。観客のエモーションが最も報われる部分は、
映画の残り部分を占めてかつ前面に押し出されている裸のシーンでは全くない。
コーイチの昔の恋人であるミオオとの再会や友人シャオガンとの離別も、リョータが自分の真実の愛の探し方は全く間違っているのかもしれない、
と薄々気づき始めるさまも感動的でありかつ、辛辣でもある。
アレクサンダー広場がこんなにも寂しげに見えたことはついぞ無かった。
エリザベス・カー (from 'The Hollywood Reporter') レヴュー全文和訳はこちら
ベルリンの街並みは美しく、イマイズミ監督の所作も美しく、巧妙に設計され細部が複雑に絡み合う物語も美しく、
そのせいか、これでもかこれでもかと出て来る男同士のセックスには、なぜだか淫靡さを感じませんでした。
むしろ、不安やトラウマが原因でただ肌を重ねて無我夢中になるためにセックスをしてきた自分の過去と重なり合い、感情が湧き上がってきました。
見終わった頃には軽く脳を使った感覚と、随分と癒された心と、映画の間には気付かずにいた涙の跡が残りました。
セックスとは何か、それを頭ではなく心で知りたい方に、ぜひ見ていただきたい映画です。
K Nomura(翻訳者)
『永遠な「ネコ」も「タチ」なんてない』
今泉監督の「Berlin Drifters」はポルノ映画である。つまり、一人で二時間、各自のパソコンで映画全編を大人しく観ることは至難のことである。お部屋でゲイのカップル、いや、ヘテロセクシャルのカップルがこの映画をみて、ムラムラになりセックスをし始めるなら、この映画は途中まで見られなくても成功したと言える。その意味で「Berlin Drifters」は、普通の「映画感想」よりは、かなり体力が必要である「体験」に近い。
映画の最初のシーンもセックスから始まり、映画のプロットと人間関係作りもセックスで構築されて行く。会話もセリフも最小限に抑えられて、人物の過去と性格もセックスで表現される。主演でもある監督は、映画の中で殆どの人々と口付けをする。一般のロマンス映画の8割が関係作りの展開で2割がセックスであれば、この映画はその真逆であるのだ。
脚本のある映画でありながら、この映画の俳優たちは自分の本名と国籍で出演する。もちろん監督ご自身もカメラレンズの前で激しくセックスをし、掘ったり掘られたりして射精する。一般的に僕のセックスは20分ほどで終わるが、2時間以上のこの映画の半分以上はセックスのシーンで、室内と野外、人種と歳を問わずベルリンのゲイたちがセックスが捉えられている。
音響も照明も荒い撮影だが、逆に僕はここで近い距離感を感じた。マジマさんの芝居のキャラクターは、正直にいうと、とてもフラットだった。過去も未来もない、ただ希薄な同性婚の希望を持っている存在だったのだ。だけど、空を浮かんでいる霧のようにセックスを求めているベルリンの漂流者たちと、自分の携帯のアプリで24時間相手を探している我ら21世紀のゲイと大した違いはない。その理由で、僕は逆に「Berlin Drifters」がロマンス映画よりは、ドキュメンタリー映画に近いと思う。
毎日誰かとセックスをして部屋に帰ってくる「リョウタ」に「今日はどんなプレーをした?」と聞く「コウイチ」のキャラクターが印象的だった。セックスは激しいかも知れないけど、暴力は見えてこない。リョウタとコウイチのWater Sportsのシーンが一瞬に恐怖映画のように見えたが。
「Berlin Drifters」では、多数の男たちが多発的にセックスをするクロスオーバーがたくさん出る。この映画は、「セックス」というのは二人(もしくはその以上)の一回性の事件ではなく、個々人が他人と関係を作りながら身に付いた歴史であることを、この映画は証明している。人間はセックスで生まれ、セックスをしながら一人の大人になるのである。この映画では、永遠な「ネコ」も「タチ」もないのだ。
金相佑(映画監督)
今泉浩一監督自ら主役としても出演、また、脚本がゲイ漫画のハード描写をウリとする田亀源五郎という話題の作品である。
ドイツ・ベルリンのアパートメントの一室を中心に、日本からやって来た訳ありの男、浩一が、同じく海外のセフレを求めてやってきた亮太と、つかの間のセックスを楽しむというのが大まかな筋である。
そもそも、性的マイノリティーであるゲイが主人公の映画を撮ると、テーマは差別や偏見、無理解などにより彼らの生き方を認めない人間、社会が描かれ制作されてきた。しかし、本作品に関して言えば、今泉監督の表現したいものはそれらを越え、普通にゲイの日常を通して彼らの身体に肉薄し、彼らの生き方、恋愛、セックスそのままを描きたい、その執拗さがこの映画の信条なのではと思われる。そういう意味では古今東西、世界中にあふれるほどある男女のそれを、男同士だって何ら変わることはないよね?と監督自ら、それに音楽担当の岩佐浩樹等最少スタッフによる手作りによる熱い映画なのである。
浩一が亮太を自分の部屋に連れ込み、肌けた衣服から除く、亮太の黒々としたヒゲ、腋毛、胸毛などを見つめるシーン、基本的にタチの彼が思わず発するよがり声などは、観客の一人として大満足の描写の一端で、監督の若い頃から思い描いていたゲイムービーの姿を、この作品でさらに推し進めたい気持ちの詰まった映画作品ということもできる。
日暮孝夫(美術品収集家)